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おサル先生の在宅医療入門
「在宅NSTの訪問栄養指導!」の巻(3)

小川 滋彦(金沢市・内科)
(石川保険医新聞「おサル先生の在宅医療入門65~70」より一部改変して転載)

必笑仕事人、管(かん)理栄子(りえこ)登場!

八方ふさがりだった。何もかも拒絶するAさんにおサル先生は困り果てた。耳鼻咽喉科のドクターは胃ろうの適応だと言う。しかし、それをAさんに納得させるなんて、ねずみがネコに鈴を付けるより困難だと思った。

実は、奥さんが最後の手段として呼んだ救急車を、本人が追い返してしまったその日のこと。「せめて点滴でもしてやって…」と泣きつかれ、おサル先生は久しぶりにAさん宅を往診した。以前にも増してやつれた上に顔面浮腫を認めるAさんの状態に、予想はしていたものの少なからず驚いたおサル先生は、奥さんに請われるからというよりも、本心から栄養点滴の必要性を説いた。しかし、その申し出は決して受け入れられることはなかった。点滴もさせてくれない人にどうやって胃ろうの話を切り出すことができよう。

ただ、おサル先生もまったく手をこまねいていたわけではなかった。ちょっと強引かな、とは思ったが、すでに最初の頃に奥さんに頼んで担当のケアマネージャーを代えてもらった。平田麗美さんと言っておサル先生とは十年来のつき合いのある介護支援センターの責任者である。困った時にいろいろ相談することができたし、平田さんも主治医のいない患者の往診をおサル先生に依頼してくることがあった。そんな福祉畑のすご腕ならAさんにどんなアプローチをするだろう。きっと医者とは違った切り口で問題解決の糸口を見つけてくれるのではないか、そのような期待を抱いた。

結局、ヘルパーも訪問看護も受け入れず、ケアプランを立てることはできなかったのだが、平田さんは何回かの訪問で今から思えば重要な指摘をしてくれていたのだ。いわく「ものによっては意外と食べている」こと、そして「精神的なもの、家庭環境が問題ではないか」という2点である。もちろん、胃ろう導入にとらわれたおサル先生は、この時点では軽く聞き流してしまっていた。

しかし、八方ふさがりの今、平田さんの「ものによっては意外と食べる」との指摘を思い出し、ちょうど時を同じくしておサル医院に赴任してきた管理栄養士、管(かん)理栄子にすべてを託すことにした。彼女が無床診療所であるおサル医院にどのような経緯でやって来たかは、連載第63回に記したのでそちらを参照して…と書きたいところだが、おサルシリーズはあくまでもフィクションなので新たな理由を考えなければならない。しかし、物語を先に進めよう。

郷土史研究家…! 理栄子のひらめき

Aさんは要介護者なので、訪問栄養指導は介護保険の居宅療養管理指導(管理栄養士による)で、1回530単位を月2回まで請求できる。おサル先生は事態打開のためには持ち出しになっても構わない、回数制限にとらわれず訪問するよう理栄子に伝えた。非常に困難な症例であることを念押しながら。

理栄子はAさんの奥さんと電話で打ち合わせて、さっそく翌日から訪問を開始した。第1回目と2回目はAさん本人が書斎に立てこもってしまい、空振りに終わってしまった。それでも理栄子は持ち前の明るさで、粘り強く3回目の訪問を行った。今度は奥さんの許可を得た上で、這って書斎に逃げ込もうとするAさんを追いかけた。理栄子は本人に無断で書斎に押し入ったような形になってしまったが、Aさんは出て行けとも言わず、観念したかのように彼女のはじめての自己紹介を聞かされることになった。

「わたくし管、管・理栄子と申します。Aさんに食べていただきやすいお食事を奥様と作らせていただきたいと思い、おサル医院からやってきました」

理栄子があまりに大きな声で話すので、Aさんは圧倒された様子だったが、しばらくしておもむろに

「カンだって?変わった名前だね。君は年金未納で辞めさせられた政党党首の親戚かね」

「あの方は草がんむりですわ。わたくしは竹がんむりです」

理栄子は書斎の本棚にぎっしりと並んだ蔵書の中から、Aさんの著書を目ざとく見つけ、それをきっかけに氏が郷土史では名の知れた研究家であることを聞き出した。

それからは彼女の面目躍如だった。理栄子は栄養士として地元金沢の食材に強い関心を持っていたので、郷土史研究家とは話が合ったようで、Aさん自身が食に対して相当なこだわりを持っていることを知ることができた。

おそらく「食へのこだわり」は、その人の歩んできた人生そのものであり、それ故に本当に心を開いた相手に対してのみ語ることができるものなのであろう。そして、Aさんはおサル先生のことをきっときらいだったわけではないのだろう。ただ、医者にこんなことを話しても仕方ないし、知られたくもないと思ったのかもしれない。

このようなプロセスをへて、4回目の訪問からようやく本格的な栄養指導が始まったのである。