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「いろうの手術」と心の軌跡

私は、平成4年4月に気管切開と呼吸器の装着を同時に行い、声を失い同時進行していた病のために手足をはじめ体は動かなくなりました。平成8年2月に食べ物もお茶さえも喉を通らなくなって[いろうの手術]をして現在に至っています。

●死を選択できるように胃瘻を拒む
私は、呼吸器を装着したときに思いました。これから生活するにあたり、自分が人生に疲れたり介護者を始め周囲の人たちから疎んじられて生きる価値がないと判断した場合、いつでも自分の身は自分で始末したいとね。だけど、体が動かなければ自殺することも出来ません。これには困りました。健常者は、精神的に行き詰まったり経済的に破綻したりすると、一度は死を考え「死んだ気になってもう一度やり直そう」「それでも駄目なら、死についてもう一度考え直せばいい」と思って立ち直った人は沢山いると思うんです。つまり、健常者は認識の有無はともかく、自分で自分の始末が出来る(死を選ぶ)から、それをバネにして頑張れると思いました。

それに対して、呼吸器をつけて体が動かなくなったら、バネにするものがなにもないじゃありませんか。そのときの私は、食べることが出来たので、あるとき閃きました。「そうだ、死にたくなったら食べなければ良いんだ。そうすれば餓死できる」とね。この素晴らしい(?)考えに到達してからは、呼吸器人生が楽しいものになりました。しかし、寿司も食べられるおはぎだって食べられる生活は長続きせず、3年くらいしたら食事に時間がかかるようになり、3食に6時間は当たり前になりました。そのころから、主に手足の指の間を始め皮膚疾患が出来て、治ると別のところに出来るの繰り返しで、褥創(じょくそう)まで出来ました。偏頭痛持ちの女房は、ストレスからよく持病に悩まされました。そのような状態にもかかわらず、女房や見かねた訪問の看護婦さんに「[いろうの手術]をすれば、栄養も安定し好きなものは食べられていいよ」「それに3食で6時間なんてかからないし」と勧められても、最後の一線を守るために返事はしませんでした。

●やはり「生きたい」
ある日の土曜日の朝食のときです。食べ物は全く喉を通りません。せめてお茶だけでもと思ったのに、これも駄目でした。今までは、食事が喉を通らなかったことはあるが、お茶は飲めたし、1食我慢すれば次から食べることが出来たのに、今度は様子が違う。容易ならない事態に直面していることがわかりました。土曜日、日曜日と何も食べずに窓から見える青い空と天井を見つめて考えました。[いろうの手術]をしようかどうかとね。

もし[いろうの手術]をすれば、すべての身の始末を介護者に任せるので、生きるのに疲れたからといって死を選ぶことは出来ません。自分の意志で死を選ぶことの出来る最後のチャンスです。[いろうの手術]をして生きようか、それとも死を選ぼうか、と考え続けました。月曜日の朝になって「やはり、生きたい」の結論に達し、女房に話してその場で病院に電話をして[いろうの手術]を要請してもらいました。

病院の回答は「今週はスケジュールが一杯だが、今日の午後は空いている、1時までに来られるなら対応出来るが」とのことで急いで仕度をしてセーフ。手術は、麻酔をかけたので夢のうちに終わり気がついたら手術室の前でした。「もう夕食の流動食は入れてもいいですから」と言われて驚きました。もう自分の意志のみでは死を選べません。呼吸器に続いて又新しい命を授けてもらったと、自分に都合の良いように勝手に解釈しました。

●栄養補給で「野生動物」から「人」へ
3食とも流動食ですが、安定的に入れるようになってからは体重も増えました。何よりも驚いたのは、皮膚疾患と褥創がいつのまにやら消えてしまいました。テレビで見た野生の動物は、食べ物がないと毛が抜ける。更に皮膚病になる。何のことはない、私は腹をすかせた野生動物を実践し、[いろうの手術]をして栄養補給して人並みになったのです。今は、朝昼はラコールという病院から勧められたもの、夜は家庭のミキサー食ですが、月に1回栄養の配分のことで、栄養士さんと女房が2巨頭会談を行っています。

私は高見の見物をしながら時折「肥らせて焼いて食おうなんて、悪い気を起こすなよ(?)」と言っているので、現在のところ体重は安定しています。今でも女房は、私に「あんたは馬鹿だねぇ。命ぎりぎりまで[いろうの手術]をしなくってさ」と言うが、不器用な生き方と思っています。そんな私にも相談に来る人がいますが、私の経験を話して「いろいろな生き方があるが、体力のあるうちに行うのがベストです」と勧めています。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)
PEG歴:5年4ヶ月
筆者:照川 貞喜(60歳)